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軍艦島ミステリー3 遊郭の真実

1957年に売春防止法が施行されるまで、軍艦島の歴史の中には、常に遊郭の存在があったとされます。南部商店街にあった遊郭の前には、人々が列をなしました。しかし、常連と次第に顔なじみになって公娼としての性質が失われることから、人気は落ちていきます。若い人は、お金をためて長崎まで行くことが増えたといいます。

軍艦島の歴史には常に遊郭の存在があった?

軍艦島には3軒の遊郭がありました。「本田」「森本」は日本人用の遊郭、「吉田」は、朝鮮人専用でした。しかし、遊郭と言っても軍艦島では、堀で囲まれた廓上のものではありません。単体の店舗、すなわち遊女屋でした。元島民の話では、誰もが遊郭の言葉を使ったと言います。

大正時代に撮影した写真を見ると、整然と並ぶ炭鉱住宅の奥に木造3階建てで窓の造りも特殊な建物が写っていますが、構造から遊郭だと考えられています。

昭和に入り、戦前から戦後にかけては、島南部にあった南部商店街に遊郭は存在。戦後も営業が続けられました。戦後の残留朝鮮人に関してはさまざまな見解がありますが、少なくとも軍艦島の遊女屋で働いていた人々は、日本人と仲良くしていたと言う報告もあります。

遊郭のその後…

やがて朝鮮人が軍艦島からいなくなると、「吉田」は中島文具店と大石洋装店になりますが、本田と森本は営業が続けられました。この頃は、仕事が休みの日に長崎市内へ繰り出す人も増え、島内の遊興場の需要も減っていきます。

売春防止法が制定された1957年、表向きには遊女屋や売春宿の類は島内から姿を消すこととなります。同時期に発生した巨大な台風9号は、被害を真っ先に受ける南部にあった商店街、木造の商店をすべて壊滅させました。

南部にあった商店は、島内中央部の端島銀座へと移ります。跡地に立った31号棟には、元来付近にあった郵便局が入居する結末に。

軍艦島に遊郭があったと言っても、あくまでも一会社の私有地内であり、特に独身炭鉱マンに対しての必要措置。結局、一般の街で遊郭のような発展はなかったのです。

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※平成23年度~平成30年度の上陸実績

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