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高島炭鉱

軍艦島(端島)とともに世界遺産登録された高島炭鉱

長崎港から南西へ、およそ14.kmの沖合に浮かぶ高島。島内には、軍艦島とともに世界遺産に登録された「高島炭鉱」があります。

高島と炭鉱の歴史

高島炭鉱は、江戸時代の1695年に平戸藩松浦郡江迎の五平太が石炭を発見したことが始まりとされます。明治時代初期には、英国商人トーマス・グラバーらによって採掘がはじめられ、国内初の立坑「北渓井抗」を開削。以降、グラバー商会との合弁事業として、高島炭坑開発の共同経営がはじまります。

高島炭鉱では、日本初の蒸気機関を導入。イギリス人技師を雇い入れて堅抗を掘り、着炭を成功させます。技術は福岡県の筑豊や三池炭鉱にも伝えられ、日本の石炭産業を飛躍的に進歩させたことが評価されています。

過酷な労働環境だった高島炭鉱

1965年頃には従業員約3,000人、年間出炭量約127万トンを達成。非常に良質の石炭が採掘されたことから「黒ダイヤ」と呼ばれていました。

しかしその一方で、「納屋制度」と呼ばれる過酷な雇用制度が取られた背景もあり、「二度と帰れぬ鬼ヶ島」と恐れられていました。

会社と納屋頭による二重の搾取、非人間的な労働環境、逃亡者はリンチによって見せしめ的に殺害されるなど、あまりに過酷な雇用形態は、雑誌『日本人』(6-14号)に掲載された、松岡好一(ルポライターで、自ら炭坑で働いた高島炭鉱の元勘場役)による告発記事「高島炭鉱の惨状」によって全国に知られ、全国的なキャンペーンが巻き起こりました。

その後、納屋制度の劣悪な住居に代わって、会社直轄の宿舎が建設。しかし劣悪な労働環境は、第二次世界大戦後まで残りました。

1985年頃、エネルギー革命により年間出炭量約65万トンに低落。1970年に17,415人いた高島町の人口は閉山2年前の時点で6,400人にまで減少。その後も減少を続け、一時は面積・人口ともに全国最小を記録したのです。結局、粉塵爆発事件の発生、日米貿易摩擦解消のための産業構造調整第1号として、1986年に閉山しました。

海の状況や悪天候で上陸できないことも多い中、平均上陸率94.7%(※)と高い上陸率を誇る軍艦島コンシェルジュさん協力のもと、軍艦島の上陸ツアーに参加したレポートを紹介しています。ツアーの見どころはもちろん、軍艦島の魅力を余すところなくお届けします!

※平成23年度~平成30年度の上陸実績

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