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大正時代から昭和時代にかけ、軍艦島は最盛期を迎えました「軍艦島」と呼ばれはじめるのも大正時代からです。人口が増え続けた軍艦島では、鉱員たち向けに高層アパートも建設されました。1916年に建設された、日本国内最古の鉄筋コンクリート(RC)造のアパート「30号棟」は、現在も残っています。
軍艦島には、炭鉱夫をはじめ家族も住んでいるため、生活に必要な設備も充実していきました。炭鉱の残りの土地には、さまざまな施設が立ち並びます。小中学校、病院、寺院や旅館、映画館などの娯楽施設や販売店がひしめき合い、建物間の幅はとても狭いことが特徴です。
島内での生活では、1963年に「緑化運動」が活発化します。当時、建物の建設ラッシュにより、軍艦島は植物などの緑が多くありませんでした。「緑なき島」に緑を求める住民の無意識の渇望から、日本初の屋上庭園が作られるなど島内の緑化が盛んになります。屋上庭園は、30号棟の建設以降、ほとんどの建物に作られていきます。
炭鉱の点では、「端島炭鉱」は、日本の近代化を支える炭鉱の一つになりました。1941年、良質な強粘炭が採れることから年間生産41万1100tの最高出炭を記録。軍艦島は黄金期を迎えました。この頃の日本は戦争の連続で、国の近代化が推し進められている時代。石炭の採掘方法が変わり、最終的にはベルトコンベアを導入するなど機械化を進めていったのです。さらに、中国や朝鮮からも労働者を雇い、軍艦島で採掘された良質な石炭は国の発展を大きく支えていきました。
しかし、この時期の端島の生活は極めて厳しいものでした。労働者は、落盤や浸水に加え、ガス爆発などの炭鉱事故と隣り合わせの中で作業をしていたのです。1939年には坑内でガス爆発事故が発生し、死傷者34人を出しています。
また、台風上陸も島民を悩ませました。大型の台風が島を直撃すると、護岸から人工地盤まで丸ごと飲み込まれる被害が発生。人々は、防潮棟や排水装置、防潮階など軍艦島独自の防潮対策を実施しました。
海の状況や悪天候で上陸できないことも多い中、平均上陸率94.7%(※)と高い上陸率を誇る軍艦島コンシェルジュさん協力のもと、軍艦島の上陸ツアーに参加したレポートを紹介しています。ツアーの見どころはもちろん、軍艦島の魅力を余すところなくお届けします!
※平成23年度~平成30年度の上陸実績