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軍艦島へ上陸して実際の姿を見ることで、より軍艦島の特異性や景色に圧倒されます。一度は見に行く価値ありですが、構造はどのようになっているのでしょうか。
軍艦島の多くが鉱場であり居住地がとても狭かったため、島の周りを6回にわたって埋め立てる形で護岸堤防の拡張を繰り返します。明治期のうちに、ほとんど現在の形に近いものになり、およそ3倍もの面積に広がりました。
明治時代に建造された、「天川工法」と呼ばれる伝統的な石組で組まれた護岸。コンクリートで補強されて現代まで使われてますが、波が激しいためコンクリートが剥がれやすく、補強工事が何度も行われていました。
軍艦島には別の陸地とをつなぐ橋梁や飛行場がなく、島へ行くための交通機関は船に限られました。ですが、軍艦島は堤防で囲まれているため、港がありません。
そのため、当初は護岸に沿って設置された斜路に小船で直に着岸や斜路の船揚げ場を造り、停泊しました。1887年〜1962年にかけ、三菱は社船「夕顔丸」を運航し、野母商船が長崎港より、伊王島、高島を経由して端島に至る航路を運行しました。
最初は小舟で岸壁の斜路に着岸しましたが、1925年にクレーン式上陸桟橋ができると、艀から桟橋を通って上陸。しかし、海が時化ると艀に乗り移れない子どもは上陸桟橋から垂れる縄梯子を昇るしかありません。大型船の着岸できる桟橋が完成したのは、1962年と年月がかかりました。
軍艦島の建物は、縦に伸びた建物とそれをつなぐ階段が多く見られ、縦横無尽に張り巡らされた姿が空中都市、または迷宮と呼ばれています。当時は、島内の端から端まで雨の日も濡れずに移動できたとまで言われるほど。狭い敷地をより有効に使うための工夫が各所で施されています。
59号棟・57号棟・16号棟の間にある階段。島内で最も商店が多く、人通りが激しかった繁華街である端島銀座の正面にあります。島の地盤レベルから頂上の神社をつなぎます。
50段ある階段は、岩礁最北部の高さを一直線につないでいます。階段の片側には大規模な擁壁が築かれ、明治から昭和にかけて擁壁の上には小学校がありました。
独身寮である67号棟の建物外部の階段。上下の移動と左右の移動を可能にするため、Xの字のような特徴的な形をしています。
明治時代に開発された、端島の地下に広がる端島炭坑の坑道。この時代としては世界でも珍しい海底坑道です。
海底を採掘するため、地下に遥かに巨大で複雑な坑道が掘られ、地下約1,000mの深さまで掘り進められました。 製鉄用の良質な原料炭を産出する炭鉱として、日本の産業革命期を支えてきた炭坑でした。
軍艦島での水の確保は、非常に難しいことでした。島には川、池、湧き水もありません。1890年、三菱社の管理下になり、安定して水を確保できるようになります。ですが、人口が増え続ける軍艦島ではまだまだ足りませんでした。
島民は、節水を行うことで水を確保します。「水券」の発行による配給制度の導入や生活用水の海水利用、浴場や洗濯場などの大量の水を消費する場所との共同化など対策を練りました。1957年、日本初の海底水道が敷設され、水の確保が楽になったのです。
一方の電気は、炭鉱の特性から1902年に島内に発電所が建設されました。しかし、炭鉱施設に必要な電力を確保する機械の大型化、消費電力の肥大化に伴って発電所が変電所に変わります。
1917年に軍艦島の親会社に当たる、高島炭鉱の発電所からの送電海底電線ケーブルの敷設によって。送電がはじまりました。
海の状況や悪天候で上陸できないことも多い中、平均上陸率94.7%(※)と高い上陸率を誇る軍艦島コンシェルジュさん協力のもと、軍艦島の上陸ツアーに参加したレポートを紹介しています。ツアーの見どころはもちろん、軍艦島の魅力を余すところなくお届けします!
※平成23年度~平成30年度の上陸実績